アユムが1歳6ヵ月になった。10月25日に1歳半検診をした。生後4ヵ月,6力月,9ヵ月,1年としてきて,半年ぶりの検診である。

まず母親のアイを麻酔する。注射の好きな人はいないだろう。チンパンジーも注射は嫌いだ。普段アイに注射の訓練はしていない。日々の付き合いの延長で,相手に頼み込む,という手法をとる。「こっちにおいで」 「座って」 「はい,手を出して」と努めて平静に声をかける。アイの右の手首を片手で握り,アルコールを染み込ませた脱脂綿で腕をよくふく。「大丈夫だよ」「じっとしていて」「そぉーっとするからね」と声をかける。針を剌すときと,薬液を注入するときが痛い。チクッと来て腕を引っ込めようとするところを,大丈夫,大丈夫」 「我慢,我慢」と声をかける。

麻酔薬は4ミリリットル。ゆっくりゆっくりと注入する。初めて注射をしたときは,注射筒を持つこちらの手が震えた。今でも緊張する。アイの太い腕を左手でしっかり握りながらも,そっと指を動かして相手の手をなでる。「よーし,よしよし」と言いながら時間をかけて注入すると痛みが薄いようだ。「偉い,偉い,すごい,すごい」「よく我慢できるねぇー」と声をかけ続け,「よくやったぁ,す・ば・ら・し・い!」と最後にほめる。乾いた脱脂綿で,あとをよくもむ。手を握りしめているうちに,アイはうとうとし始めた。

アユムは,注射の針にぐっと顔を近づけて一部始終をじっと見ていた。敷きわらの上に横たわって眠る母親のそばで無邪気に遊んでいる。かといって,ここでアユムを抱き去ることはまだできない。抱き取ろうとすると,ひしっと母親にしがみついてしまう。ここは「悪漢」の出番だ。獣医師の道家千聡さんにアユムを任せておいて,私は手早く変装する。濃いサングラスをかけ,大きなマスクをつけ,茶色い帽子を目深にかぶる。普段は着ない濃紺の服に着替える。顔を見ても誰だか分からない。

「悪漢」がアユムを手荒に扱い,彼の体を押さえつけ,そのすきに手早く太もちに麻酔を注射した。眠ったところで,体の各部を丹念に調べ,レントゲン撮影する。異常はないか,病気はないか。人間の子供と同様にツベルクリンの注射もした。この貴重な機会に,形態学者は骨の密度を計測し,神経科学者が脳のMRI(磁気共鳴画像化装置)の画像を撮った。拮抗薬を打つと数分で麻酔からさめる。親子ともきょとんとした感じである。今回も無事に検査は終わった。しばらくして様子を見に行ったら,アユムが抱きついてきた。首にかじりついてキスをする。「悪漢」が誰か,見破れなかったようだ。 

注射をさせてくれるのはアイだけではない。ボポもパンも,小さいころから知っているチンパンジーたちは皆,いきなり最初から注射をさせてくれた。うれしいことや楽しいことがたくさんたくさんあれば,多少のつらいことは我慢できるのだろう。要は,日々培う信頼関係だ。アユムとのきずなをさらに深めて,次の2歳検診の時には違ったストーリーを描きたい。

この記事は, 毎日新聞 連載"松沢哲郎のチンパンジーは進化の隣人" 2001年10月29日の、 『注射をがまんする』を転載したものです。