京都大学霊長類研究所提供 ジェーン・グドールさんとチンパンジー・アユム(1歳6ヵ月)
グドールさんとアユム(1歳6ヵ月)

秋の冷気が漂っているが,空は青く澄み渡ってすがすがしい朝だった。ジェーン・グドールさんがアイとアユムを訪問した。ジェーンとアイは10年来の知己である。ジェーンの姿を認めたアイは,静かに近づいていった。そして2人は,ガラス越しに長い間キスをした。野生チンパンジーが出っ会ったときには,互いに抱擁し,アハアハアハとやわらかい声を立て,口を開けたまま,長い間キスをする。

ジェーンとアユムはまる1年ぶりの出会いになる。前回はアユムが生後6ヵ月のときだった。母親アイがコンピューターに向かって勉強する足元で,ちょろちょろと動き回る様子をごらんいただいた。今回は,初めて同室して直接対面してもらった。「ツインブース」と呼ぶ,同じ形の透明なアクリル張りの小部屋が隣り合っていて,間仕切り扉を床上15センチの高さにするとアユムだけが自由に出入りできる。

ジェーンが部屋に入るとアユムはすぐに近づいてきた。ジェーンは静かに床に腰を下ろした。アユムは,腰の引けた姿勢から上半身だけ前方に伸ばし,さらに腕もぐっと前に伸ばして,そっとジェーンのひざに手を触れた。毛も逆立てず,声もたてず,極めて静かな出会いだった。

アユムは徐々に間合いをつめてジェーンに近づいた。ジェーンはそっとアユムの体を手で包み,首のあたりをやさしく指で押した。ついで両足の付け根のあたりを軽くくすぐる。アユムは,ハッハッハッと押し殺したような小さな声を立てて身をよじる。しばらくすると,アユムは伸び上がってジェーンの顔を両手で触り,その鼻の穴に人さし指を突っ込んだ。

アユムがジェーンに十分慣れたところで,お土産のクマの縫いぐるみを部屋に持ち込んだ。床の上に置いた。ジェーンがティモシーと名づけた茶色のクマで,腰掛けた姿で高さが30センチほどのごく普通の縫いぐるみだ。これにはアユムが驚いた。一瞬にして毛を逆立て,一向に収まらない。口をとがらせ,両足で立ち上がって動き回り,壁をバンバンとたたく。「僕は強いんだぞ!」と誇示しているかのようだが,けっしてティモシーには近づかない。しばらくして,思いきって腕を伸ばして,振り払うようにしてクマをなき倒した。アユムは,私のひざにしっかりと片手をかけたまま,もう一方の手で,床に転がったクマの目に人さし指を近づけてそっと触った。

アユムは隣室の母親のところに戻った。アイは,体を低めて床すれすれの位置からアユムの顔をのぞき込んだ。目を子供の高さよりもさらに低くする。チンパンジーが子供を遊びに誘うときのしぐさだ。アイは床にあおむけに寝て,アユムの四肢を両手と両足で持ち上げ,「高い,高い」をする。アユムは口を丸く大きく開けて笑顔になった。まるで,「こうやって遊ぶのよ」とアイが我々に見せてくれているようだった。

静かな一時を,アイとアユムとジェーン・グドールさんと過ごした。次にお会いする1年後に,アユムはどんな成長をとげているのだろう。

この記事は, 毎日新聞 連載"松沢哲郎のチンパンジーは進化の隣人" 2001年11月19日の、 『ジェーンとアユム』を転載したものです。