京都大学霊長類研究所提供 チンパンジーの屋外運動場を背にするトマセロ教授
チンパンジーの屋外運動場を背にするトマセロ教授

「打製石器と人類の起源」に関するフランスのシンポジウムに招かれ,帰途,ドイツのマックスプランク進化人類学研究所で講演してきた。「進化人類学」とは耳慣れない言葉だ。ライプチヒに1998年にできたばかりの新しい研究所である。約40人の教授陣をはじめ200人以上の研究者のいる巨大な組織である。

研究所の目的は,一言で言えば,「人類の進化」の研究だ。四つの部門から成っている。霊長類学,分子生物学,比較認知発達心理学,比較言語学である。それぞれ,大型類人猿の野外調査,DNAなど分子レベルでのヒトと大型類人猿の比較,認知機能の発達過程に着目したヒトと大型類人猿の比較,現在世界で通用している多様な言語の比較とその生成過程の研究,を行っている。五つ目の部門となる化石人類学の統括責任者を現在選考中だ。

霊長類学の統括は,クリストフ・ボエシュ。野生チンパンジー研究の現在の第一人者である。分子生物学は,スバンテ・ペーボ。ネアンデルタール人のDNAを分析した研究で一躍有名になった。比較認知発達心理学はマイケル・トマセロ。ヒト幼児の言語獲得の研究者であり,大型類人猿の認知機能の研究もしている。比較言語学は,ベルナルド・カムリー。

ボエシュとトマセロの2人とは特に親しい。研究分野が近いし,昔なじみで,ほぼ50歳と年齢も同じだ。今回,仕事の終わった夜,ボエシュとはウィーン少年合唱団の公演を聴き,トマセロとはバッハの眠る教会でゲバントハウス交響楽団の演奏を聴いた。人口50万の都市で手軽にそうしたものに触れられる。文化の奥行きが広い。

トマセロは,アメリカ南部の名門エモリー大学の教授だったのだが,ヘッドハントされた。「定年までの17年間,巨額の研究費を保証されて研究に専念できる。人事権も予算権もある。これなら移って当然だろ」と言っていたのを思い出す。今年5月に,研究所のすぐそばのライプチヒ動物園に,「ウォルフガング・ケーラー記念霊長類研究センター」をつくった。チンパンジー,ボノボ,ゴリラ,オランウータンという3属4種の大型類人猿を一堂に集め,広大な敷地を持つすばらしい施設だった。研究の様子を一般の人々にも公開している。

ドイツにとって人類学というのは重たい言葉だ。人類学という科学の名を借りて,ナチスのユダヤ人に対する残虐を正当化したからである。戦後ようやく80年代になって,マックスプランク研究所が,その過去をしっかりと総括して清算し,新しい学問としての「進化人類学」を構想した。形質人類学を捨て,霊長類学,分子生物学,心理学,言語学,化石人類学という5本の柱から人間の進化を理解しようと考えた。そして広く人材を世界に募った。現在の4人の責任者は,スイス,フランス,イギリス,アメリカ人で,ドイツ人は一人もいない。

人類進化の解明は社会の利益にすぐにはつながらない。しかし重要な学問だ。そうした学問を創出するドイツという国の,学問に対する真摯な姿勢と国の力とを実感した。

この記事は, 毎日新聞 連載"松沢哲郎のチンパンジーは進化の隣人" 2001年12月03日の、 『マックスプランク進化人類学研究所』を転載したものです。