アイと名づけたチンパンジーと研究をともにしてきた。1歳のときに出会った彼女が、今は23歳。チンパンジーの寿命は50年くらいと推定されているので、人間でいえば30歳代なかばにあたる年頃だ。その彼女が、4月末に男の子を産んだ。

チンパンジーにはお産を助けてくれる者はいない。母親がひとりで取り上げる。四つ這いになって、腰を高く上げた姿勢で息む。産気づいてから8時間ほどたったころ、産道をくぐり抜けて出てきたあかんぼうの頭を片手で受けとめ、しっかりと胸に抱きしめた。

生まれてきた子は呼吸をしていなかった。四肢がだらりと垂れている。アイは、まだへその緒でつなかっているその子を片手にもち、顔をはじめ全身をなめまわした。子の口に人差し指を入れて自発呼吸をうながすしぐさもみられた。そうした甲斐があったのか、10分ほどして、ぜーぜーと大きな音をたててあかんぼうが呼吸を始めた。

深夜にも関わらず、研究者や飼育担当者などたくさんの関係者が、アイのお産を見守った。ともかく無事に生まれた子に、健やかにまっすぐ歩んでほしい、という素朴な願いを込めて、歩(アユム)と命名した。それから3ヵ月、アユムはすくすくと元気に育っている。

最初の1ヵ月間、母親のアイはむすこのアユムを片時も手放さなかった。昼間は抱いて運び、夜も胸に抱いて眠る。1ヵ月たって、ようやく、地面にそっと仰向けに置いてみるようになった。2ヵ月を過ぎるころからは、仰向けに寝たアイがアユムの手足を持って「高い高い」をする姿も見られた。アユムを首から背中のあたりに乗せて運ぶこともある。しかし、基本的には、いつでも手の届くところに母親がいる。

アフリカのギニアにすむ野生チンパンジーを見ていると、生後の3年間くらい授乳しているようだ。毎夕、母親は樹上に新しいベッドを作り、仰向けに寝た胸に子どもを抱きしめる。授乳をやめて、毎月の生理が順調に戻り、まる8ヵ月の妊娠期間を経て、次の子どもを産む。平均すると、約5年おきにひとりの子どもを産むことになる。ということは、生後の5年間、チンパンジーの子どもは母親を一人占めにして育つのである。

四六時中、子は母親にしがみつき、母親は子を抱きしめる。あたりまえといえば、ごくあたりまえの光景なのだが、現代の暮らしの中では、ついぞ見かけなくなった光景でもある。自分が小さかったころ、おぶいひもで乳飲み子を背中にくくりつけて働く女性の姿があった。胸をはだけて乳房を赤子に含ませる姿も目にした。野生チンパンジーと同じ地域に住むマノン族の人々の暮らしは今もそうだ。

現代の日本では、ひとりの女性が生涯に産む子どもの数が1.4人を割ったという。少なく産んで、だいじに育てる、ということなのだろう。その割りには、母親と子どものあいだの、しがみつき・抱きしめるような密着感、肌と肌が触れ合って伝わる暖かさが希薄になっているようにも思う。この3ヵ月間、チンパンジー親子を見てきての感想である。

この記事は,京都新聞 連載"現代のことば" 2000年07月27日の、 『抱きしめる』を転載したものです。