日本は、先進諸国のなかでただひとつ野生のサルが住む国である。アメリカやイギリスやフランスやドイツにはサルがいない。だから、「イソップ物語」や「ブリム童話」や「マザーグース」の中に、サルが主人公の話はない。かたや日本人は、「桃太郎さん」や「サル・カニ合戦」に慣れ親しんできた。

サルのことをよく知っている一般の方々が、サルに興味をもち、日本の霊長類学を盛り立ててきたと言える。しかし「サルを知っている」ということの弊害もある。自分たちが身近に知っているニホンザルからできた「サル」というイメージに、何でもかんでもあてはめて理解しようとする。チンパンジーがその好例だろう。チンパンジーを、「黒い毛の生えた大きなサル」で、「サルにしては賢い」と思っている方が多いはずだ。

しかしチンパンジーは、サルというよりは、ほとんどヒトと言った方が科学的な真の理解に近い。遺伝子の塩基配列でみると、両者は約一.七パーセントしか違わない。その差は、ウマとシマウマの差よりも小さい。英語では、「モンキー」と「エイプ」を区別する。ニホンザルはモンキー、チンパンジーはエイプだ。エイプとは類人猿のことである。約三千万年前にいた共通祖先から、現在のホミノイド(類人猿とヒトの総称)の祖先と、サルの祖先とが別れて、別の進化の道筋をたどった。ヒトとチンパンジーが同じひとつのグループで、サルが別のグループなのである。これは、化石資料やDNA分析や認知科学の研究から最近確定した。科学的な真実としてもはや覆ることはない。

昨年の十月、ニュージーランドの国会は「新・動物福祉法」を制定し、チンパンジーをはじめとする大形類人猿を「ヒ卜以外の人類」と規定し、基本的人権の一部を認めた。計五種類の人類(ヒト、チンパンジー、ボノボ、ゴリラ、オランウータン)が現在いる、という認識である。実際、つい数万年前まで、われわれサピエンス人とネアンデルタール人(旧人)は共存していた。サピエンス人とエレクタス人(原人)、ホモ属人類とアウストラロピテクス属人類(猿人)というように、歴史的にみると、じつは人類は常に複数種が同時に存在していたのである。 

こうした動きに連動して、十一月上旬に、アメリカ議会で二つの法案が成立した。第一は、大型類人猿保護法である。毎年約五億五千万円を、向こう五年間継続して、アフリカ・アジアの野生類人猿の保護に使う計画である。第二は、エイズや肝炎などの研究用にアメリカで飼育されている千五百人のチンパンジーのために、その余生をまっとうさせる「サンクチュアリ(保護区)」を設立する法案である。これには約三十三億円の予算がついた。

「素朴な信念」と「科学的な真の理解」は異なる。素朴にこの世界を見れば、地球は平らに見えるし太陽が動いているように見える。しかし、実際には地球は丸くて太陽の周りをまわっている。同様に、チンパンジーは「黒い毛の生えた大きなサル」に見えるが、じつは「進化の隣人」なのだ。そのように人々が理解する日がやがて来るだろう。

この記事は,京都新聞 連載"現代のことば" 2000年11月27日の、 『チンパンジーは「ヒト以外の人類」』を転載したものです。