十八の春だった。京都に来た。一九六九年、いわゆる学生紛争で東大入試が中止になった年である。何か何でも東大へ、と思っていたわけではない。都立高校の生徒にとって、みんなが行こうとする、学費の安い(月額千円だった!)、最寄りの国立大学、それが東大だった。中止、と言われればしかたがない。深くも考えず、みんなが行くので京都に行った。従順な羊のような受験生だったと思う。

最初の下宿は、岩倉だった。朝夕の食事が出る、いわゆる「賄いつき」で、農家だった。田植え、炎天下の草取り、農作業の手伝いがもの珍しかった。ただ、少し遠いのが難点だ。

一年たったころ、下鴨にすむ友人が「隣の部屋が空いた」と声をかけてくれた。彼の父親が学生のころにも下宿していたそうだ。押入れのふすまを開けると、内側の壁に新聞紙が貼ってある。何気なく読んだら、二・二六事件を報じたものだった。昭和の初期にタイムスリップしたような感じだった。

学校への行き帰り、下鴨神社の糺の森を抜けていく。ときどき時代劇のロケなどに出合った。葵祭のバイ卜では、ここから上賀茂神社まで、昔の衣装に身を包んで練り歩いた。

下鴨は気に入っていたのだが、山岳部の先輩から声がかかった。「南極の越冬観測に行くので、留守のあいだ下宿の面倒をみてほしい」。上級生からの依頼は断れない。もちろん、無料で、というのもありがたかった。

こうして銀閣寺に移った。門前の坂に面した白壁の土蔵である。小さいながらも一軒家だ。毎朝、修学旅行の生徒たちの喧騒で目がさめた。「哲学の道」や「法然院道」を散歩した。まだ店などほとんど無い鄙びた道だった。

先輩が南極から帰ってきて、北白川に移った。荷物は、本と山の道具しかない。学校からリヤカーを借り出した。実験に使い終わったネズミの死体を運んだりしていたものだ。荷物はそれ一台で事足りた。銀閣寺から北白川まで、友人に後ろを押してもらって引っ越しを完了した。部屋の窓をおけると北白川天神宮の森が目の前にあり、左手に高く大文字山が聳えていた。

京都で、つごう七年半を過ごした。年間の山行日数が百二十日に達し、山登りに明け暮れ、下宿でも寝袋で寝ていた。銀閣寺の交差に神戸屋パンのお店があって、無料でいただけるパンの耳を食べていた。貧しく、つつましかった。夜は、学部を異にする山のなかまが下宿に集まって、山の話だけでなく、聞きかじった「ゲーデルの不完全性定理」や、「アインシュタインの相対性理論」の話で盛り上がった。そうして、ヒマラヤでのパイオニアワークへの夢を育てていった。

先日、所用があって大学へ行った。時計台の前の大きな楠は今も変わらない。新入生とおぼしきたくさんの若者たちがいて、親御さんらしき姿と写真に収まっていた。「年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからず」と言う。「賄いつき」「下宿」「リヤカー」などは彼らにとってもはや死語だろう。しかし、二十歳前後のころに、いろいろな経験を積み、自分のしたいことをはっきり見定め、それに打ち込むことは、いつの時代でもたいせつなのだと思う。

この記事は,京都新聞 連載"現代のことば" 2001年03月30日の、 『十八の春、京都の下宿』を転載したものです。