「ガクブはどちらですか」とたずねられて、「山岳部です」と答える。学部・大学院を通じて七年半を京都で過ごした。四回生のときまで、年間百二十日ほど山に行っていた。五回生になるときに最初のヒマラヤへ行った。大学紛争のさなかに入学したので、学校は封鎖され授業はなかった。クラブの部室しか行く場所がなかったのである。

年末になって大学の授業が再開された。そのころには山ばかりの毎日になっていたので、授業への興味が薄れていた。山岳部で過ごした青春時代に悔いがないわけではない。もっと勉強すべきだった。とくに語学をマスターすべきだったと思う。幅広くいろいろな経験を積んだ方が良かったかもしれない。しかし山登りだけに打ち込んで、良かったと思うことが三つほどある。

第一は、自然に親しめた。当たり前のことだが、山登りほど、自然に親しむ行為はない。自分の足で登って降りてくる。岩、雪、沢、尾根、草原、森林。ゆっくりと、深く、自然の隅々を味わうことができた。

第二は、からだを鍛えることができた。京都にいるときも毎日トレーニングをした。定番のメニューはランニング。銀閣寺の交差点から大文字山まで走って登る。大の字の真中で、京都の市街を見下ろしながら一休みする。そしてまた走って大学まで帰る。もう少し軽くすませたいときは、鴨川を北上して上賀茂神社へ出たり、法然院道を南下して南禅寺へ出る。吉田山から真如堂を抜け黒谷あたりをまわってお茶を濁すこともあった。

「若者よ、体を鍛えておけ」という歌がある。「美しい心が、たくましい体にからくも支えられる日がいつかは来る」。「その日のために、体を鍛えておけ」という歌詞だ。学生時代、たいして頭は使わなかったが、体はしっかりと鍛えた。その後、四度ヒマラヤに行き、八千メートルの頂上にも達した。研究者として多忙な日々を送ってきたが、ギリギリのところでいつも体力が支えてくれた。いずれも、若いころの鍛錬の賜物だったと思う。

第三は、人に出会うことができた。十八の春、それまで京都にも山岳部にも霊長類学にも関心はなかった。縁があって京都に来て山登りに没頭し、その過程で多くの先輩を知った。友人や後輩にも恵まれた。「棲み分け」を発見し、日本の霊長類学を興した今西錦司。フランス文学者で、学際的な「共同研究」方式を確立した桑原武夫。真空管を作り、南極越冬隊長を務めた西堀栄三郎。彼らは、山岳部の前身である三高旅行部の同期生である。三人とも、学生時代に対座してお話を聞く機会があった。生きておられれば百歳というお年ごろで、筆者とはちょうど五十歳近く離れている。そのときは、正直、「ただのじいさんやなぁ」と思った。が、今にして思うと貴重な経験だった。容貌を、振る舞いを、声音を親しく思い出しながら、彼らの著作を読み返すことができるのは幸せだ。

今西さんを継いで霊長類学の発展に努めた伊谷純一郎さんが先日亡くなられた。恩顧を受けた方々が旅立っていかれる。縁あって出会えたことを喜び、心に残されたものをゆっくり深く味わいたい。

十月六日午後一時から京都教育文化センターで今西錦司生誕百年記念シンポジウム、翌七日午後三時から京大法経一番教室で伊谷純一郎先生追悼の集いが開かれる。いずれも、どなたでも参加できる。事前登録不要。

この記事は,京都新聞 連載"現代のことば" 2001年09月20日の、 『山岳部のころ』を転載したものです。