チンパンジーのアイたちに文字や数字を教える研究をしてきた。五つの数字を瞬時におぼえる技など、並のおとなではとてもかなわない。「どうやって教えるのですか」とよく聞かれる。幼稚園や学校の先生、障害児の施設で働く方々から、そうした質問を受ける。たしかに、ことばの通じない子どもを相手にしていると、似たような課題に直面するだろう。

要は、「ハンディキャップの思想」をもつべきだと思う。その思想の要点は三つある。第一は、人間はだれでもがハンディキャップあるいは障害をもっている、と考えることだ。だれでも、どこかに、何かしらハンディキャップをもっている。たまたまある子どもに、ある面で、ある深さをもって障害があらわれている。

何かができないとして、それをその子のハンディキャップのせいにしてはいけない。障害は当然あるものなのだから、それを補うようなくふうをすればよい。もちろんその子の才能を伸ばすというのもひとりの方法だが、少し手を貸すとか、問題自体をやさしくするのも解決法だ。背が低ければ、踏み台を与えればよい。力が弱ければ、軽く指先でふれるだけですむようなものに代える。「この子に障害があるから」「この子の能力が足りない」というラベルをはって、障害のせいにしないことがまずたいぜつだと思う。

第二は、ハンディキャップを負っている当人ではなくて、周囲の者がその克服に努力する、ということだ。どこかにくふうの余地がないかを探す。障害は、与えられた制約であり初期条件にすぎない。何かができないとしたら、それは教えられる側の子どものせいではない。教える側の教え方が悪いからだ。少なくとも、そう考える方が生産的だと思う。

身辺の自立ができない子どもがいるとしよう。服のボタンをはめられない。だとしたら、最初は全部をかわりにはめてあげて、「じょうずにできたね」と言ってほめる。次は、最後のひとつのボタンのほんの一押しだけ残しておいて、それができたら、「すばらしい!」と言ってほめる。そうした試みを、毎日決まった時刻に決まった手順でする。できれば一日も休まず、少しずつ進める。進み具合をノートに記録して、自分の努力を客観的に評価する。そうしたくふうをしてみると良い。

第三は、ハンディキャップを深く味わうということだ。「ハンディキャップ」は、じつは、それを障害だと思う人の心の中にあるのではないだろうか。○○ができるということが良いことで、○○ができないということは悪いことだ。そう思いがちだが、はたしてそうだろうか。世の中や、人生を考えると、物事はそう単純ではない。何がその人にとって幸せか。そもそも幸せとは何か。それは必ずしも自明ではない。足りないからこそ知ることのできる幸せ、障害にかかわることによって深まる理解、そうしたものもあるだろう。

障害のせいにしない、何かくふうの余地を探す、そして障害そのものを深く味わう。チンパンジーの先生をしていてそう思う。

NHK教育テレビ・人間講座で、四-五月の毎週水曜日夜十一時から、「進化の隣人チンパンジー」と題した九回の連続講義をおこなう。ぜひご覧ください。

この記事は,京都新聞 連載"現代のことば" 2002年03月26日の、 『ハンディキャップの思想』を転載したものです。