法然院の第一回「夜の森の教室」に講師として招かれた。五月中旬、小雨の降る夜だった。NHK教育テレビの人間講座「進化の隣人チンパンジー」、その最終回の収録の場として、ご住職の梶田真章さんのご厚意で法然院をお借りした。ついでに夜の講演をお受けしたしだいである。「チンパンジーの親子のきずな」、についてお話した。聴衆の中に、恩師、旧友、教え子、さらには大学生のわが娘の姿まである、穏やかなひとときだった。

ちょうどお昼に着いて夜まで過ごした。開け放たれた縁側から、西には吉田山の全景が見える。反対側は東山の懐だ。こんなにも緑は美しかったのか、と思った。「みどり」と一言ではくくれない、だんだんと深さを増す色合いがある。ときおり蛙の声が静寂を破る。

十八の春に京都に来て、七年半を過ごした。岩食、下鴨、銀閣寺、北白川と下宿を変えた。銀閣寺は、門前の坂道をほぼ上がりきった左側にある白壁の土蔵に住んでいた。南極越冬にでかけた山岳部の先輩の留守番がわりだったので、下宿代は無料だった。中二階の天井は頭がつかえるほど低い。寝袋にくるまって本を読んで過ごした。本棚に、白土三平の「カムイ伝」があった。

休みの日に、「法然院道」をよく歩いた。一筋西の山麓にある「哲学の道」も今ほどのにぎわいはなかったが、銀閣寺から南へ続く法然院道の方は一段と静かだった。法然院の門前を上がって左に折れると小さな山門がある。逆に右に折れると墓地がある。谷崎潤一郎、九鬼周造、河上肇、内藤湖南、そうした方々のお墓があった。夕暮れの墓地のひんやりとした墓石の感触が今も手に残っている。

二十二歳から二十三歳にかけて一年余りを土蔵で暮らしたことになる。そこから、ネパール・ヒマラヤのヤルンカン(カンチェンジュンガ西峰)の遠征に出かけた。隊員二人が初登頂に成功したが、一人は帰路行方不明になった、夏に帰国する直前に、山岳部の後輩が北アルプスの北又谷で転落死していた。同年十一月、初冬の槍ケ岳山麓で、今度は自分自身のパーティーが雪崩に巻き込まれた。五人が亡くなった。幕営地の選定をわたしが誤ったために、彼らを死なせたのである。

半年足らずのあいだに、三回の遭難で七人の仲間を失ったことになる。わが身一人のことではないので、「挫折」と呼ぶのさえはばかられる。自らの過ちで、たいせつなものを失い、そして人々を深く悲しませた。京都はわたしが学問を志した場所だ。しかしあの頃、学問にすがることによって、かろうじて心の平衡を保てたのだと思う。昼間は大学でひたすら勉学に励んだ。夜は、低い天井と寝袋で二重に包まれるようにして眠った。

遭難から三年後、縁あって霊長類研究所に奉職した。京都から犬山に移った。結婚し、子どももできた。チンパンジーと出会い、その研究を今も生業にしている。いつしか、愛息を山で亡くした親御さんたちと同じ年頃になった。そのお気持ちは察するにあまりある。心の奥底に澱のようにたまったものがあるのだろう。久しぶりに法然院の境内に入ると、一瞬、身内にざわざわとした感触がよみがえってきた。でも、すぐに静まった。死ぬのも人生、生き残るのも人生。そう歳月が言うのである。

この記事は,京都新聞 連載"現代のことば" 2002年05月27日の、 『夜の法然院』を転載したものです。