夏休みは国際学会が多い。六月下旬、アトランタに行った。七月はシンガポ-ル。八月上旬は北京で、下旬にはシカゴで講演がある。数えてみると、すでに南極以外の五大陸、二十七力国を訪問したことになる。うらやましい話のようだが、いずれも数日間で往復せざるをえないせわしない旅だ。ただ遠くに行って、すぐに帰って来る。

誰でもそうだろうが、最初の海外旅行は忘れられない。二十二歳のとき、インド・ネパール・パキスタンの旅だった。山岳会の最年少メンバーとしてヒマラヤの山をめざした。先発した仲間を追って、遠征資金を届ける役目で、まだ冬のさなかの二月に日本を発つた。一人旅だった。

それまで飛行機というものに乗ったことがなかった。生まれて初めて乗る飛行機。滑走路を驀進し始めると、ぐっと背中が座席の背もたれに押さえつけられた。離陸したとき、思わず顔がはころんだ。飛んだ。空を飛んでいる。

最初に着いた都市がインドのニューデリー。しかも夜の十一時頃だった。わあわあとすごい人だかりで、荷物にボーターが群がる。もみくちゃになりながら、全身ハリネズミのように神経を尖らせて、ようやくホテルにたどりついた。

翌日はネパールのカトマンズ。出迎えてくれた先輩の姿を見て、ほっと心が緩んだ。めざす山はヤルンカン、八五〇五メートル。ネパール南東部の平原の町ダランバザールから長い道を歩き始めた。毎日少しずつ高度をかせいだ。出会う水牛が、ふつうの牛になり、さらに毛足の長いヤクになった。標高五○○○メートルの氷河上の基地にたどリ着いたのは三月下旬だった。

それからまる二ヵ月間、雲と氷と岩だけの空間で過ごした。氷点下二〇度以下の寒さにまつげが凍った。平地の半分にも満たない薄い空気に肺と心臓がバクバクとあえいだ。毎日二十キロの荷物をかついで氷の斜面を上り、そして下る。強烈な陽光で肌は焼け、唇は割れて血がにじみ、高山病のために顔も足も激しくむくんだ。利尿剤を飲んだら、たった一晩で八.六リットルもの尿が出た。ー升瓶でほぼ五本にもなる量である。

登山を終えて氷河を下り、最初に見た草の緑が忘れられない。空気が濃い。五月下旬、すでにモンスーンが近づいていて、大気はしっとりとぬれている。生気がからだ中に染み渡った。カトマンズに帰着して隊が解散したあと、同級生の高木真一と二人だけで、インドを経由してパキスタンのカラコルム山群へ向かった。翌年に、自分たちだけの力でめざす、未踏の山を搜すためである。

七夕の夜、インダス河のほとりの小さな集落で過ごした。粗末な宿の軒先でナンと呼ばれるパンを食べて横になった。星を見ながら声低く語り合った。山にいて、翌年の山の話をする。そして、さらにその先の山の話をした。ナムチェバルワ、グルラマンダータ、ガンケルプンツム、未踏の山がまだたくさんあった。さらに一ヵ月間を山で過ごして、八月半ばに日本に帰着した。六ヵ月間の旅が終わった。

三十年近い歳月を隔てても、はっきりと記憶に刻まれた思い出の日々がある。見上げた星の瞬きも、川音も、ほおに触れる風も思い出せる。あの頃、時間だけはたっぶりあった。そして夢があった。人生でいちばんぜいたくな時だったと思う。

この記事は,京都新聞 連載"現代のことば" 2002年07月29日の、 『旅の日々を思い出す』を転載したものです。