野生チンパンジーの調査のためにアフリカに来ている。ちなみにこの原稿は衛星電話のEメールで送っている。アフリカの調査も急速にたたずまいを変えている。調査地は、西アフリカのギニア、リベリア、コートジボワールの三国にまたがるニンバ山だ。標高一七五ニメートル、三国の最高峰で、日本人にとっての富士山のような山だ。世界自然遺産に指定されており、動植物の宝庫である。

コートジボワール側からこの山の調査を初めて九年目になる。初期の開拓はわたしがしたのだが、そのあと足が遠のいて、今回久しぶりに山に入った。標高八〇〇メートルほどのところに、ヤシの葉で屋根をふいた小屋を立ててある。その調査基地を朝七時に出て、チンパンジーを探す。声は聞こえるのだが姿が見えない。昼下がり、突然、囗から噴き出すような強烈な吐き気と下痢に襲われた。一段落するとすぐに吐き気と便意が戻ってくる。急性の食中毒だと思った。かろうじて十回までは数えたが、あとは数えるのをやめた。

はなはだしい疲労感がある。GPS(人工衛星を利用した測地システム)で、緯度と経度で現在位置を確認した。九年前、まさにこのニンバ山でGPSを使ったのが、野外調査でGPSを利用する草分けだった。今では、現在位置だけでなく移動経路や目的地までの距離も示してくれる。基地まで直線距離で一.四キロと表示された。ただし標高差が三〇〇メートルほどの登りである。

同行していた現地助手が二人、心配そうに顔をのぞきこんでいる。便の色がうせ、白い米のとき汁のような水しか出なくなった。胃も空である。携行していた薬品の中から下痢止めのロペミンと抗生物質のケフラールを飲んだ。壮健なおとなの足なら、約四十分で基地に戻れると助手が言う。あいにく雨期の真っ最中である。いつ雨が降り出してもおかしくない。良い雨具を持っているのだが、ビバーク(緊急露営)となると、夜間の冷え込みがこわい。

意を決して登りはじめた。二十歩もいかないうちに足が止まりあえぐ。激しい嘔吐と下痢で、想像以上に急速に体力を失ってしまったようだ。ヒマラヤの八〇〇〇メートルで、低酸素のために体が思うように動かないことはあった。しかし、体力の極度の消耗で動けなくなるという、これほどひどいものは経験したことが無い。まさにガソリンの切れた自動車のように、まるで足が動かないのである。

両わきを抱えられて歩くがそれも困難になった。基地で待っていた三人の現地助手に応援を求めた。五人がかりで「もっこ」のように担ぐ。仕留めたクマの両手・両足を棒にしばりつけ逆さまにぶらさげて、その前後を人がかつぐ、あの格好である。さすがに手足をしばれないので、わたしがあおむけの姿勢で棒を手でつかみ足をひっかける。その背中にハンモックのように毛布が当てられていて、その毛布の両端がしっかりと棒に結び付けられている。

毛布に包まれてゆらゆらと揺れる。見上げた樹冠の向うの空が暮れなずむ。けっきょく四時間かかって無事に小屋に戻った。バーンド・アウト、燃え尽きる、という英語の表現がぴったりの得がたい経験だった。

この記事は,京都新聞 連載"現代のことば" 2002年09月26日の、 『バーンド・アウト』を転載したものです。