北海道・日高山脈の伏見岳に登った。大学山岳部の後輩のT君が同行してくれた。旭川で講演があり、いつもなら必ずすぐ帰るのだが、一日だけ帰りを延ばしてゆっくりした。

早朝、車で旭川を出て、狩勝峠を越えて十勝平野に入った。歩き始めたのは九時四十五分、日帰りの山行である。十月の下旬だが、もう北の山にはうっすらと雪が積もっていた。山肌を覆うダケカンバの木々がすっかり葉を落とし、ほうきを逆さまにたてたような姿をしている。十日も早ければ、全山燃えるような黄色に染め上げられていたはずだ。鮮やかな色合いも良いだろうが、しんとしたたたずまいと冷気にも味わいがある。

午後一時半、山頂に首いた。頂上からの眺めがすばらしい。この山は、主稜線から少し東に張り出した位置にある。日高の山なみを見渡す絶好の展望台だ。目の前にどっしりとポロシリ岳がそびえている。右に、チロロ岳、たおやかな山容の芽室岳と続く。山岳部六回生の春三月に、山スキーを使って登ったことがある。左にはカムイエクウチカウシ岳、コイカクシュサツナイ岳が見える。これらも、三回生の春に、山スキーをアイゼンに履き替えて登った。

「あっ、1839が見える」。思わず口をついて出た。遠くさらに南方に、見覚えのある鋭角の山頂が頭をのぞかせていた。標高1839mの無名峰である。「1839」という無味乾燥な数字列が、当時の山岳部の若者にとっては、限りない北への憧憬を象徴するものだった。日高山脈南部のペテガリ岳と並んで、積雪期に最も登頂困難な山だ。ピッケルとアイゼンとロープを使ってようやくたどリ着いたカムイエクウチカウシの山頂。そこから深いV字谷を隔てて、純白のドレープをまとったような姿が蒼穹にそそり立っていた。まだ実力がなく、1839の頂上は遠かった。その雪の頂をめざす気持ちの向こうには、未踏のヒマラヤの峰があった。ひたすら山に登る日々だった。そして、一緒に山で過ごした仲間の多くが山で亡くなった。三十年前の記憶が、きのうのことのようによみがえる。

伏見岳の登山口に四時半にたどりついた。その晩は二人で近くの屈足温泉に泊まった。翌朝、旭川に戻って、三浦綾子記念文学館を訪れた。『氷点』『塩狩峠』などの作者である。『氷点』の舞台になった外国樹種見本林の一角に文学館はあった。見本林を突き抜けると美瑛川だ。秋の光をいっぱいに浴びて、さらさらと流れていた。手を浸してみる。さほど冷たくはなかったが、思いのほか流れは速かった。空港でT君と別れた。好天に恵まれて、大雪山、トムラウシ岳、十勝岳、富良野岳、かつて登った連山の頂が真っ白に見える。

夕方早く家に帰り着いてくつろいだ。ふと思いついて、書斎の本棚から『氷点』を抜き出してみた。うっすらとほこりをかぶったページをぺらぺらめくると、最後に読了の日が記してあった。よく見ると、その横に二人の娘のサインが添えられていた。日付から数えてみると、ともに十五歳のころだ。この作品が、十五の心にどのように届いたのだろうか。そうした話を子どもと交わした記憶がない。わたしの気づかないうちに、彼女たちは成長して、そして巣立っていった。

この記事は,京都新聞 連載"現代のことば" 2003年12月01日の、 『はるかな山なみ』を転載したものです。